私たちは、自他の言動や、ある物事について、何らかの原因を求めようとする。
この心的過程は、心理学の用語で帰属と呼ばれるらしい。
バナナの皮で滑って転んだ人を見たとき、私たちは「運動神経が悪いからだ」とか「不注意だからだ」とまず考える。
転んだ原因はバナナの皮が落ちていたことなのに……。
他者を観察する際、私たちは内的要因を過大評価し、外的要因を過小評価する傾向にある。
これを根本的な帰属の誤りと呼ぶ。
このエラーが起きる原因はよくわからない。
観察者と行為者の視点が違うからではないかとざっくり置いておくことにする。
なお、私に心理学を学んだ経験はないし、この用語がこれから先出てくることもない。
使ってみたかっただけなのだろうと思う。
人狼ゲームにおいても同じことが発生しがちなよう思われる。
たとえば真占を強硬に真と主張し続けていた人物がいたとする。
占の真贋が確定した際、その言動の帰属が「狼でないこと」に求められるケースはそれなりに多い。
真占は本当にそこまで真だったのだろうか。
偽占は本当にそこまで偽だったのだろうか。
言動には動機がある。ほとんどの場合、その動機は議事の中に存在する。
全ての発言動機が議事の中に見出せる場合、村として破綻がないという評価が正しいのだろう。
破綻がないことは必ずしも白要素とは言えない。
とはいえ、最後まで破綻がないのであれば、白である可能性が高いとみなしていいような気もする。
動機が議事の中に見出せない、ないし議事の中にある根拠と主張の強弱が著しく乖離している場合。
この時はじめて役職要素や個人要素を検討する余地が出てくる。
それが村役職に由来するならば、白要素。
狼役職に由来するならば、黒要素。
どちらとも取れないのであれば、個人要素。
実際のところ、黒要素と個人要素を区別するのは難しい。
明確でない個人要素は黒要素としてしまうのが良いのかもしれない。
内的要因を過大評価してはならない。
占に限らず、SGとされる村人の扱いにも同じことが言えるような気がする。
彼あるいは彼女が黒くなった原因には路傍のバナナがあったのかもしれない。
しかしそれを黒と主張していた人物は、狼だからそうしていたのではなく、ただバナナに気づかなかっただけなのかもしれない。
転んだ人を見かけたら、私たちはまずバナナの皮を探さなければならない。
バナナ食べたい。